「ハル・ノートの悲劇」とは、第二次世界大戦直前におけるアメリカと日本の外交交渉の顛末を指しますが、これを「悲劇」と呼ぶのもいささか滑稽に感じるほど、そこには多くの皮肉が潜んでいます。
1941年11月、アメリカは日本に対し「ハル・ノート」と呼ばれる最終提案を提示しました。これは、国務長官コーデル・ハルの名を冠したもので、日本が中国やフランス領インドシナからの撤退、さらには三国同盟の放棄などを求める内容であり、日本側には到底受け入れがたいものでした。アメリカ側は「戦争回避のため」として提示したつもりだったのでしょうが、その実、これは日本に「戦争をするか、屈辱的な譲歩を飲むか」という二者択一を迫るものでした。皮肉なことに、ハル・ノートが「最終提案」として手渡された瞬間、日本の選択肢は戦争か降伏の二つに絞られてしまったのです。
当時の日本の指導層は、このハル・ノートを「最後通牒」とみなし、これを屈辱的な強制と受け取りました。実際、日本政府内の多くの者が「もはや戦争以外の道はない」と感じ、開戦へと突き進んでいきました。しかし、ここで忘れてはならないのは、日本側がなぜここまで状況を悪化させてしまったのかという点です。当時の日本は、中国への侵略や南方資源地帯への進出を続け、米英との緊張を自ら高めていました。その結果、資源不足に悩むようになり、戦争に突き進まざるを得ないような経済状況を自ら招いてしまったのです。「国益のため」と称しながらも、戦略的判断の甘さと、他国の反応を無視した強引な外交姿勢が、まさにこの悲劇を生み出す原因となったのです。
また、アメリカ側の思惑も実に興味深いものです。ハル・ノートは、日本に圧力をかけるための文書であったと言われていますが、その内容が日本をどのように追い詰めるかについて、どれだけの予測がされていたのでしょうか。日本が「自尊心」を重んじる文化を持つことや、追い詰められたら強硬策に出やすいことは、ある程度理解されていたはずです。アメリカ側は、日本がハル・ノートを受け入れられないことを薄々分かっていながらも、あえてそれを突きつけ、日本が自ら攻撃するよう仕向けた面も否めません。結果として真珠湾攻撃が起こり、アメリカは「正当な被害者」として戦争に突入する口実を手に入れました。
一方、日本側も滑稽です。彼らは「国のための戦争」と言いつつ、実際には自国が抱える経済的な問題や外交政策の行き詰まりを解消する手段として戦争を選んだに過ぎません。戦争によって一時的に国民の不満をそらし、国内の経済を立て直そうとした姿勢が見え隠れしています。しかし、その選択が最終的に日本全土を焼け野原に変えることになるとは、当時の指導者たちは理解していなかったのでしょう。あるいは、理解しようとしなかったのかもしれません。彼らは、名誉や国威を振りかざしつつ、その実、冷静な判断を欠いたままに突き進んだのです。
「ハル・ノートの悲劇」は、そうした日本とアメリカ両国の意地と誤算が生み出した結果です。アメリカはハル・ノートを通じて「平和の選択肢」を提示したと主張し、日本は「名誉ある拒絶」を選んだと自負しましたが、両国の選択は皮肉にも、さらなる悲劇への道を切り開くこととなりました。もしも日本がその時点で冷静に譲歩し、戦争を回避していれば、その後の悲劇的な歴史は違ったものになっていたかもしれません。しかし、彼らは「自尊心」という美辞麗句を盾に、合理的な判断を無視してしまったのです。
こうしてハル・ノートは「最終通牒」の名のもとに、歴史における一つの「悲劇」を刻むことになりました。しかしその「悲劇」とは、戦争回避の可能性がすでに尽きていたことを指しているのかもしれません。